top of page

デザインとは主体が創るアフォーダンスそのもの

  • 執筆者の写真: nextform じゅんや
    nextform じゅんや
  • 6月13日
  • 読了時間: 18分

デザインとは「主体が創るアフォーダンス」そのものである。

この結論へと至る思考の軌跡を、グラフィックデザイナーとしての私の経験とデザイン史の視点から紐解いていきましょう。

長年、デザインの世界に身を置いてきた中で、「デザインとは何か」という根源的な問いは常に私の傍らにありました。

特に、バウハウスの「形態は機能に従う」という言葉は、そのシンプルさゆえに多くのデザイナーに影響を与えてきましたが、

私にとってはどこか割り切れない違和感を伴うものでした。

デザインを語る上で避けて通れないのが、アートとの区別です。

アートが内なる表現の追求であるのに対し、デザインは常に他者との関係性の中でその価値を見出します。

それは、ジョン・デューイが芸術を「経験」と捉えたように、デザインもまたユーザーの経験を豊かにするための営みであると言えるでしょう。

しかし、単に機能を満たすだけでは、真のデザインとは言えません。なぜなら、私たちはただの機械ではなく、主体的に世界を解釈し、意味を見出す存在だからです。

ジャン=ポール・サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と語ったように、私たちは絶えず選択し、自己を形成していく主体です。

デザインもまた、この「主体」が他者の行為を促すための「アフォーダンス」を創り出すプロセスに他なりません。

このブログでは、デザイン史を辿りながら、アフォーダンスという概念を深掘りし、グラフィックデザインのみならず、

プロダクト、建築、インタラクションなど、多岐にわたるデザイン分野の視点を取り入れながら、

「主体が創るアフォーダンス」としてのデザインの真髄に迫ります。





目次


アートが自己表現を追求するのに対し、デザインが常に他者との関係性の中で機能する理由を、具体的な事例を交えながら考察します。


デザインの歴史において絶大な影響力を持つバウハウスの理念、特に「形態は機能に従う」という言葉が、現代のデザインに与えた影響と、その限界について、私のグラフィックデザイナーとしての経験を交えながら論じます。


ジェームズ・ギブソンの提唱したアフォーダンスの概念を詳しく解説し、それがどのようにデザインにおいて「行為を促す」ものとして機能するのかを、多角的な視点から掘り下げます。


サルトルの実存主義哲学における「主体」の概念を援用し、デザイナーが単なる制作者ではなく、ユーザーの行為や経験を「創出する主体」であるという視点からデザインを再定義します。


これまでの議論を踏まえ、グラフィックデザインの分野に特化しつつ、他分野のデザイナーの視点も取り入れながら、「主体が創るアフォーダンス」としてのデザインが、これからの社会でどのような可能性を秘めているのかを探ります。






第1回:デザインとアート、その決定的な違い


長年グラフィックデザイナーとして働く中で、「デザインって、結局アートと何が違うの?」という問いは、私自身が最も深く考え、そして多くの人から聞かれてきたことでもあります。世の中には「デザインはアートだ」と主張する人もいれば、「アートとは全く別物だ」と断言する人もいます。しかし、この両者の違いを明確に理解することは、デザイナーとして、そしてデザインの受け手として、非常に重要なことだと私は考えています。


まず、アートは、基本的に自己表現の追求です。アーティストは、内なる感情、思想、世界観を表現するために作品を創造します。その作品が鑑賞者にどう受け取られるかは、もちろん重要な側面ではありますが、本質的にはアーティスト自身の内面から湧き出る衝動に基づいています。例えば、抽象絵画は、描いたアーティストの感情やコンセプトが色や形で表現されており、鑑賞者はその表現に触れて何かしらを感じ取ります。そこには特定の機能や目的が求められることは少なく、純粋な感動や問いかけが中心にあります。


一方、デザインは、常に他者との関係性の中でその価値を見出します。デザインは、特定の目的を達成するために、誰かの課題を解決するために存在します。私が手掛けてきたポスターやロゴ、ウェブサイトといったグラフィックデザインは、企業や商品のメッセージを伝え、顧客に行動を促すことを目的としています。プロダクトデザインであれば、使いやすさや快適さを追求し、建築デザインであれば、住む人や利用する人の生活を豊かにすることを目指します。つまり、デザインはユーザーやクライアントといった「他者」のために存在し、その「他者」が何を必要としているのか、どうすればより良い経験を提供できるのかを深く掘り下げて考えます。


ジョン・デューイは、芸術を「経験」として捉えました。彼にとって芸術とは、単なる作品自体ではなく、その作品を創造するプロセスや、それを鑑賞する人々の経験の総体でした。この考え方をデザインに当てはめてみると、より明確な違いが見えてきます。アートの「経験」がアーティストと鑑賞者の個人的な対話に重きを置くのに対し、デザインの「経験」は、ユーザーが特定の目的を達成したり、問題解決をしたりする上での「具体的な行為」に密接に結びついています。


例えば、美しい文字のタイポグラフィは、アートとして鑑賞することもできます。しかし、それが広告のキャッチコピーとして使われる時、そのタイポグラフィは「メッセージを効果的に伝え、購買意欲を喚起する」という明確な目的のために存在します。つまり、デザインは、ユーザーの特定の行動や経験を「促す」ことを意図して創られるのです。この「促す」という行為が、デザインがアートと決定的に異なる点であり、私がこのブログで深掘りしていきたい「アフォーダンス」という概念にも繋がっていきます。





第2回:バウハウス再考:「形態は機能に従う」の功罪


前回はデザインとアートの決定的な違いについてお話ししました。アートが自己表現の追求であるのに対し、デザインは他者との関係性の中で、特定の目的を達成するために存在するという点です。今回は、そのデザイン史において最も大きな影響を与えた言葉の一つ、バウハウスの「形態は機能に従う(Form follows function)」について掘り下げていきたいと思います。


この言葉を聞いたことがあるデザイナーは多いでしょう。簡潔で力強く、まるでデザインの真理を突いているかのように聞こえます。実際、長年グラフィックデザイナーとして仕事をしてきた私も、この言葉には何度も向き合ってきました。しかし、正直なところ、この言葉が常にしっくりくるわけではありませんでした。むしろ、どこか割り切れない違和感が残ることが多かったのです。


「形態は機能に従う」の功績

バウハウスは、1919年にドイツで設立された美術学校です。ワルター・グロピウスが提唱した「形態は機能に従う」という思想は、当時の装飾過多なデザインや、職人的な慣習に縛られていたデザイン界に大きな変革をもたらしました。彼らは、無駄な装飾を排し、素材の特性を活かし、製品の機能性を最大限に引き出すことを目指しました。これにより、モダンデザインの基礎が築かれ、その思想は家具、建築、そしてグラフィックデザインに至るまで、あらゆる分野に浸透していきました。


グラフィックデザインにおいても、この思想は大きな影響を与えました。例えば、文字の可読性を高め、情報を効率的に伝達することに重点を置いたタイポグラフィ、シンプルで明快なレイアウト、機能的なアイコンやシンボルの開発など、今日のグラフィックデザインの基礎を形作る上で、バウハウスの合理的なアプローチは不可欠でした。私も、クライアントのメッセージを最も明確に、そして効果的に伝えるために、無駄を削ぎ落とし、機能性を追求するデザインを心がけてきました。


私の「割り切れない違和感」

しかし、この「形態は機能に従う」という言葉には、ある種の限界も感じています。私の違和感の根源は、デザインが単なる「機能の充足」で終わってしまうのか、という問いにあります。


例えば、コップをデザインするとしましょう。「形態は機能に従う」という視点で見れば、水を飲むという機能を果たすために、持ちやすく、こぼれにくく、洗いやすい形状が最適解となるでしょう。しかし、それだけで本当に良いコップと言えるでしょうか? 人がコップを選ぶ時、機能性だけを追求するでしょうか? 私たちは、そのコップが持つ手触り、色、形がもたらす感情、そしてそれを使うことで得られる「心地よさ」や「満足感」も求めているはずです。





第3回:アフォーダンスの概念:ギブソンから読み解く「行為を促すデザイン」


前回、バウハウスの「形態は機能に従う」という言葉に私が感じていた違和感についてお話ししました。単なる機能の充足だけでは、デザインの真価は測れない。そこには、ユーザーがデザインを通じて得る「経験の質」が深く関わっている、と。では、その「経験の質」をデザインはどうやって生み出すのでしょうか? ここで登場するのが、心理学者のジェームズ・ギブソンが提唱した「アフォーダンス(Affordance)」という概念です。


アフォーダンスとは何か?

ギブソンは、人間を含む生物が環境から直接的に情報を知覚し、それに基づいて行動すると考えました。その際に、環境が生物に提供する「行動の可能性」をアフォーダンスと呼びました。ちょっと難しく聞こえますが、要するに、環境が私たちに「こうしたらいいよ」と教えてくれる手がかりのことです。


たとえば、目の前にドアがあったとします。そのドアに「ドアノブ」がついていれば、私たちは自然と「これは掴んで回すものだ」と認識し、ドアを開けるという行為に繋がります。これがドアのアフォーダンスです。もしドアノブがなければ、私たちはどう開けるべきか迷うか、あるいは開けられないと判断するでしょう。つまり、ドアノブは「開ける」という行為をアフォード(提供)しているのです。


この概念は、私たちの日常生活に溢れています。


・階段は「昇り降りする」ことをアフォードしています。

・椅子は「座る」ことをアフォードしています。

・平らな道は「歩く」ことをアフォードしています。


ギブソンは、このアフォーダンスが、私たちが世界を認識し、行動する上で不可欠なものだと考えました。私たちは無意識のうちに、環境が持つアフォーダンスを読み取り、行動を選択しているのです。


デザインにおけるアフォーダンス

このアフォーダンスという概念は、デザインの世界に大きな示唆を与えます。なぜなら、デザイナーの仕事はまさに、ユーザーに特定の行為を促すためのアフォーダンスを「創り出す」ことだからです。


私がグラフィックデザイナーとしてウェブサイトを制作する際、ユーザーに「このボタンをクリックしてほしい」「ここに情報を入力してほしい」といった行動を促すために、色や形、配置、テキストなどの要素を細部にわたって設計します。


ボタンに影をつけることで、「これは押せるものだ」というアフォーダンスを与えます。

入力フォームに枠線とラベルをつけることで、「ここに文字を入力する場所だ」とアフォードします。

「詳しくはこちら」というテキストリンクは、「クリックすると詳細情報が見られる」というアフォーダンスを提供しています。

プロダクトデザインや建築デザインにおいても、アフォーダンスの考え方は同様に重要です。例えば、とあるプロダクトデザイナーが手掛けた、押す部分がへこんでいて、引く部分が突き出しているドア。これは、ユーザーに直感的に「押す」「引く」という行為をアフォードするように設計されています。一方、どちらに開くのか分かりにくいドアは、アフォーダンスが不十分なデザインの典型と言えるでしょう。


「行為を促すデザイン」の重要性

「形態は機能に従う」という言葉は、機能性を追求する上で重要な視点でした。しかし、アフォーダンスの概念を取り入れることで、デザインはさらに深みを増します。単に機能を満たすだけでなく、その機能がユーザーにとって「どのように知覚され、どのように行動に結びつくか」という視点が加わるのです。


デザインは、ユーザーの認知プロセスに寄りかけ、スムーズなインタラクションを生み出すための「橋渡し役」と言えます。優れたデザインは、明示的な説明がなくても、ユーザーに自然な形で次の行動を示唆し、迷いなく目的を達成させます。それは、ユーザーが「これならできる!」と感じ、ストレスなく利用できる心地よい経験を提供することに他なりません。





第4回:デザインにおける「主体」の役割:サルトル哲学からの示唆


前回は、ギブソンの提唱するアフォーダンスの概念について掘り下げました。環境が私たちに「こうしたらいいよ」と教えてくれる手がかり、つまり「行為の可能性」としてのデザインの側面です。ドアノブが「開ける」行為をアフォードするように、デザインはユーザーの特定の行動を促すための手がかりを創り出す、という話でした。


しかし、デザインを単なる「機能の充足」や「行為の誘発」だけで語り尽くせるでしょうか? ここで、私のグラフィックデザイナーとしての経験と、サルトルの実存主義哲学が交錯する点にたどり着きます。デザインにおける「主体」の役割について、深く考えてみたいと思います。


サルトルの言う「主体」とは?

ジャン=ポール・サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を残しました。彼の哲学の中心にあるのは、人間はあらかじめ定められた本質を持たず、自らの選択と行動によって自己を形成していく「主体」であるという考え方です。私たちは何者かになることを強制されているのではなく、常に選択の自由を持ち、その選択に責任を負うことで、自らの存在を規定していくのです。


このサルトルの「主体」という考え方をデザインに当てはめてみると、非常に興味深い洞察が得られます。デザイナーは、単にクライアントの要望を形にする「道具」や、ユーザーの行動を機械的に誘発する「仕掛け人」なのでしょうか? 私はそうは思いません。私たちデザイナーもまた、創造の過程において能動的な「主体」であり、そして私たちのデザインは、ユーザーという別の「主体」の行為や経験に深く関わっていくのです。


デザイナーは「意味を創る主体」である

「形態は機能に従う」という言葉が、私に違和感を与え続けたのは、それがデザインの「意味を創り出す」という側面を軽視しているように感じられたからです。コップが単に水を飲む道具であるだけでなく、その色や形、手触りが私たちに喜びや心地よさを与えるように、デザインは単なる機能を超えて、ユーザーに感情的な価値や、より深い「意味」を提供します。


グラフィックデザインの現場で言えば、ロゴやブランディングはまさにその典型です。ロゴは単なる記号ではありません。それは企業の理念やビジョンを凝縮したものであり、見る人に信頼感や親近感、あるいは革新性を感じさせる「意味」を帯びています。私たちは、そのロゴを通じて、企業と顧客との間に情緒的な繋がりを創り出し、ユーザーの心の中に特定の「イメージ」や「感情」を築き上げようとします。これは、単なる機能的な側面では説明できない、デザイナーが「主体」として意味を創り出す行為なのです。


デザインがユーザーにもたらす「選択と経験の自由」

さらに言えば、私たちが創り出すアフォーダンスは、ユーザーに特定の行為を促すだけでなく、ユーザー自身の「選択の自由」にも繋がっています。優れたデザインは、ユーザーにストレスを与えることなく、スムーズに目的を達成させるための道筋を示します。しかし、それはユーザーを一方的に「操作」することではありません。むしろ、分かりやすいインターフェースや使いやすいプロダクトは、ユーザーが迷うことなく、自らの意思で自由に選択し、行動できる「自由な経験」をアフォードしていると言えるでしょう。


例えば、直感的に操作できるアプリは、ユーザーに「何ができるか」を明確に示し、ユーザーは自分の意思でその機能を自由に選択し、利用することができます。情報が乱雑で使いにくいアプリは、ユーザーの選択の自由を奪い、フラストレーションを与えます。つまり、デザイナーは、ユーザーが能動的に世界と関わり、自らの行為によって経験を形成していく「主体」であることを尊重し、そのための豊かな選択肢と明確な手がかりをデザインを通じて提供するのです。



「デザインとは『主体が創るアフォーダンス』そのものだ」という私の結論は、まさにこの点に集約されます。

デザイナーという「主体」が、自己の創造性と意図をもって、対象となるユーザーの行為や経験を促すためのアフォーダンスを創り出す。

その創り出されたアフォーダンスは、ユーザーに単なる機能の充足だけでなく、感情的な価値や深い「意味」を提供する。

最終的に、デザインはユーザーが自らの意思で選択し、行動することで、豊かな「経験」を形成する「自由」をアフォードする。

バウハウスの合理性と機能主義は、デザインの基盤を築きました。しかし、そこにサルトルの哲学が示唆する「主体」の視点を加えることで、デザインは単なる有用性を超え、人々の自由な選択と、意味に満ちた経験を創造する営みへと昇華されるのです。





第5回:グラフィックデザイナーが見る「主体が創るアフォーダンス」の未来


これまでの連載で、私たちはデザインとアートの違いから始まり、バウハウスの「形態は機能に従う」という言葉への私なりの違和感、そしてギブソンのアフォーダンス、さらにサルトルの「主体」という概念を通して、デザインとは「主体が創るアフォーダンス」そのものである、という結論へと至りました。


今回は、グラフィックデザイナーとして歩んできた私の視点から、この「主体が創るアフォーダンス」という考え方が、グラフィックデザイン、ひいては他のデザイン分野の未来にどのような可能性をもたらすのかを考察したいと思います。


グラフィックデザインにおける「主体が創るアフォーダンス」

グラフィックデザインは、とかく「見た目の美しさ」や「情報の伝達」に終始しがちだと見られがちです。しかし、「主体が創るアフォーダンス」という視点で見ると、その本質ははるかに深遠なものになります。


私たちがロゴをデザインする時、単に会社の名前を美しく表現するだけでなく、そのロゴを見た人が「この会社は信頼できる」「この商品は私にとって魅力的だ」と感じ、最終的に購入や契約といった「行為」に繋がるよう、感情的なアフォーダンスを創り出しています。ウェブサイトを設計する際も、ユーザーが迷わず目的のページにたどり着き、必要な情報を簡単に見つけ、最終的に「問い合わせ」や「購入」といった「行動」をスムーズに行えるよう、視覚的な手がかり(アフォーダンス)をちりばめます。


これは、単に情報を並べる作業ではありません。デザイナーという「主体」が、ユーザーというもう一人の「主体」の心の動きや行動パターンを深く洞察し、「これならやってみよう」「こうすればもっと良くなる」という行動の可能性を、視覚的・体験的に提示しているのです。私たちがデザインするものは、ユーザーに「自由な選択」と「豊かな経験」をアフォードする媒体なのです。


他分野のデザイナーからの視点

この「主体が創るアフォーダンス」という考え方は、グラフィックデザインに留まらず、あらゆるデザイン分野に応用できる普遍性を持っています。


プロダクトデザイナーは、ユーザーが直感的に操作でき、愛着を持って使い続けられるような製品をデザインします。例えば、ある炊飯器のボタン配置一つとっても、ユーザーが迷わず「炊飯」を開始でき、使っていて心地よいと感じる「アフォーダンス」が意識されているはずです。それは、単なる機能性だけでなく、日々の生活に溶け込み、ユーザーの「主体的な食体験」を豊かにする意味合いを持っています。

建築デザイナーは、空間が人々にどのような行動や感情を促すかを深く考慮します。広々としたエントランスは「歓迎」を、落ち着いた照明のカフェは「くつろぎ」をアフォードします。光の差し込み方、素材の質感、動線設計の全てが、そこにいる人々の「経験」と「行動」を形作るアフォーダンスとして機能します。

インタラクションデザイナーは、デジタルプロダクトにおけるユーザーとシステムの対話、その全てをデザインします。画面上のアニメーション、サウンド、フィードバックの全てが、ユーザーに「次は何をすべきか」「今何が起きているのか」を明確に示し、ストレスなく目的を達成できる「アフォーダンス」を創り出しています。

これらの分野において、デザイナーは単に「機能的な形」を追求するだけでなく、その形がユーザーの「心」にどう響き、どのような「行為」を促し、最終的にどのような「経験」をもたらすのかを、主体的に思考し、創造しているのです。


「主体が創るアフォーダンス」が拓くデザインの未来

「形態は機能に従う」という言葉が機能性を重視する時代を築いたとすれば、「主体が創るアフォーダンス」という考え方は、機能性を超えた「経験の質」と「人間性」を重視するデザインの未来を指し示しています。


AIの進化がデザインプロセスに大きな変革をもたらしている現代において、単なるアウトプットの自動生成では、真のデザインは生まれません。AIは効率化の強力なツールとなり得ますが、ユーザーの感情や文化、そして多岐にわたる「行為の可能性」を深く洞察し、人間らしい「意味」を創り出すのは、やはりデザイナーという「主体」の役割です。


私たちは、単に「もの」をデザインするのではなく、ユーザーの「経験」をデザインし、彼らが自らの「主体的な選択」を通じて、より豊かで意味のある生活を築けるよう、「アフォーダンス」という手がかりを創り出す存在なのです。この認識こそが、私たちがこれから目指すべきデザインの真価であり、グラフィックデザイナーとしての私の誇りでもあります。





この投稿を通して、「デザインとは何か」という問いに向き合ってきました。アートとの違い、バウハウスの理念、そしてアフォーダンスとサルトルの「主体」という概念を紐解きながら、私なりの結論「デザインとは『主体が創るアフォーダンス』そのものだ」にたどり着きました。


デザイナーは、単に美しい形や機能を生み出すだけではありません。私たちは、ユーザーの行動や感情、そして経験を深く洞察し、「こうしたらもっと良い」という行為の可能性を創造する主体です。それは、単なる機能を超え、ユーザーに意味と自由、そして豊かな経験をアフォードすることに他なりません。


そして、このアフォーダンスを創り出す営みは、突き詰めれば「世界を設計する役割」を担っていると言えるでしょう。私たちが日々手掛けるデザインは、人々の生活様式、思考様式、そして社会のあり方そのものに影響を与え、未来の風景を形作っています。


グラフィックデザイナーとして30年弱、この信念こそが私のデザインを支えてきました。AI時代において、人間の「主体性」が創り出すデザインの価値は、ますます高まっていくでしょう。

Comments


bottom of page