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  • 執筆者の写真nextform じゅんや

「テリー・ギリアムのドンキ・ホーテ」The Man Who Killed Don Quixote

更新日:2020年1月26日





本日封切りで御座います。朝から観に行って参りました。




インテリジェンスをインテリジェンスに観せられる事が多い機会がたくさん。

窒息しそうだ。

いつも詩的ではあるが、それを幼稚にパッケージして、ほとんど隠してしまう。細部に描かれたメタファーは些細な事に使われ、いつも夢か現実かどうでも良くなる。

モンティ・パイソンの時から、インテリジェンスを馬鹿にしたインテリであり、それを解明する行為さえも馬鹿にされる様な、痛快な挑発。


実は、3年前になるだろうか、当店のnextHomeの周年において、ライオンの絵を描いた。

映画でも原作でも語られているが、ドンキホーテは、「憂い顔の騎士」や色んな異名があり、その中の一つ、「ライオンの騎士」を題材にした。

これが描かれたTシャツをお持ちの方は、見ていただきたい、ドンキホーテ、サンチョパンサ、ドゥルシネーアの隠し文字や、それにまつわる隠れた文章を。


本作、登場人物達は、1人も「まとも」な人が出てきません。

僕は、ドンキホーテの純情に憧れを持ち、松田侑子女史の「ドンキ・ホーテの人物像に関する一考察」という論文を読ませて頂いた。今でもインターネット内でPDFにて配布されているかもしれない。それは、読めば読むほど、主人公は本当に狂人だったのか?という問いに行き着く。本作もそうである。

一体、何が「まとも」という事なんだろうか。

自らの立ち位置が「まとも」だと自惚れてやしないだろうか。

学生時代、僕はセルバンデスの原作を読み、主人公が入れあげた騎士道ってなんだろうと興味を持ち、何冊かの本を読んだ。引越しを繰り返した時にずいぶん捨ててしまい、VIやCI、BIなどの勉強の糧にした、紋章学の本も残っていた。


原作は勿論のこと、そういった諸々が頭に入ってると、本作が全く違う所から始まり、だんだんと原作に当てはまり、最後には違う終わり方をする。その描写は、前述したが本当に詩の様である。

エンドクレジットが流れる頃、僕は美しい詩を朗読して、あたかも自分が言い放った様な、満足感があった。


恐れ多い事だが、色んな憶測で数々の天才が作った物を「僕だったらこうしたなぁ...」と具体化する想像力が足元にも及ばない。理解の域のスケールが違いすぎて、畏怖すら感じる天才を「鬼才」と呼ばれる所以だと感じる。


鬼才「テリーギリアムのドンキホーテ」

20年待った甲斐があった。

頭が悪い人は、観ないで下さい。

僕が「まとも」と自惚れていたとしても。




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